2009年10月18日日曜日

「だから、私たちは裁判することにした」 第1回口頭弁論で意見陳述





















今回の意見陳述とともに、警大跡地の貴重な木々の写真を数枚のパネルにまとめて、裁判官と傍聴者の方々に見ていただきました

 2009年10月16日、中野・警察大学校等跡地(JR「中野」駅そば)の開発計画の取消しを求めている裁判の第1回口頭弁論で、原告住民が意見陳述しました。

 次回口頭弁論は来年2010年1月22日(金)に開かれます。

意見陳述書

2009.10.16

 私たちは「中野4丁目地区地区計画」内の警察大学跡地に隣接した住民です。

 この警大跡地には戦前は陸軍、戦後は警察関連の施設があり、緑ゆたかな広い空間は周辺の空気を浄化し、気温を調整し、周辺住宅地の環境保全に大きく貢献していました。春は桜、夏は緑の涼風を、秋はモミジやイチョウが目を楽しませ、冬は雪景色も美しい樹林が沢山ありました。子供の頃は警察大学校の庭やグランドで自然に遊ぶこともできました。私たちは、この原っぱで花をつみ、虫をつかまえて育ちました。1000本を超える樹木、昆虫、鳥なども数多く生息し、都会では珍しい貴重な生態系の宝庫で、鳥の声、せみしぐれに目が覚める恵まれた環境でした。

 警察関連の施設は、2001年に首都機能の一極集中を解消するために移転しました。同年、跡地利用を検討してきた東京都、中野区、杉並区の三者は「移転跡地土地利用転換計画案」に合意しました。この計画案は4haの防災公園と、周辺環境へ配慮した緩衝地帯をもつ清掃関連施設用地2haを合わせると実質的には合計6haの公園緑地となり広域避難場所の核にするという内容でした。

 ところが、2004年に田中大輔・現中野区長が発表した計画に私たち住民はびっくり仰天しました。住民の安全とやすらぎのための公園とは180度違う、周辺住宅地の環境を破壊するとんでもない、まちづくり計画でした。

 以前の計画のゴミ処理施設は廃止になりました。しかし、公園は否定されたわけではありません。いざというときには私たちの命を守ってくれる広域避難場所の中心として期待していました。もっと広い公園になるとばかり思っていた警大跡地がいつの間にか高層ビルが何棟も建つ六本木ヒルズのような開発計画になっていたのです。


 中野区の市民グループが公園にしてほしいという署名を集め始めました。私も早速、中野区議会に生まれてはじめて陳情をだしました。高円寺北一丁目の約300世帯にアンケートをお願いしました。138軒の回答の約90%が「1)公園にしてほしい 2)樹木を残してほしい 3)高層ビルの建設や民間開発には反対」という結果でした。中野区が開催した説明会では2001年の三者合意の計画にある4haの公園が「中野駅周辺まちづくり計画」では1.5haになったのは納得できないという声がゴウゴウと上がりました。

 私たち、中野区と杉並区の住民は、中野区議会始まって以来、前代未聞の130もの陳情と1万4000筆の署名を提出し、パブリックコメントも387通、この他要望、質問、交渉などは数知れず、中野区に訴えつづけました。また、東京都、財務省、国交省、杉並区にも何度も足を運び、都議会、国会議員にも話しを聞いていただきました。


 しかしながら行政は形式だけの説明会、パブリックコメント等の手続きを次々と進め住民の要望、意見を全く反映せず、強引に都市計画決定をしました

 公園から高層ビル街へと変わる重大な変更を、中野区は広報に載せただけで済ませ、積極的にPRしなかったため、住民もほとんどが知りませんでした。例えば、中野区の当初の説明では、公園と一体化するはずだった中央中学校の校庭の南側には公務員宿舎の高層ビルが入り公園と分断されることになりました。同校の校歌の一節に、


「富士を見晴らす 西空映えて

語る夢も 友情燃えて
中野中央 この庭高く 明日待つ光」

とあります。

 しかし、現在の開発計画が進行すると「富士」は見えず、「この庭」も周囲の巨大ビルに見下ろされ、生徒の「友情」もかすんでしまいかねません。住民不在のまま、計画が区主導で変更されたことに私たちは不信感を持たざるを得ません。


 2007年に跡地の売却処分が決まった時、開発条件として公にされた「中野駅周辺まちづくりガイドライン2007」のなかには周辺の住民に配慮した内容がいくつかありました。樹木をなるべく多く保存する。公園と開発業者のオープンスペースは一体化する。建物の高さは杉並側に向けて階段状に低くする。隣接低層住宅地との間に緩衝地帯を設けることなどです。周辺の住環境の悪化を憂慮した杉並区が、2004年に中野区に出した6項目の要求に基づいた内容が反映したものです。しかし、これらの約束は、2009年の都市計画変更により、ほとんどが反故にされ容積率もアップされました。

 私たちは特に、文章と図面によってはっきりとガイドラインに明記された緩衝地帯が無くなっていることなどを不服として、この地区計画に対して訴えを起こしました。


 東京都は都市計画の決定権者として、中野区が中心となってこれまで進めてきた当計画について、その妥当性について精査しチェックする監督義務がありました。その義務を十全に果たさず、私たち住民の願いを顧みることなく地区計画の変更を行った東京都を私たちは許すことができません。


 このまま計画が進めば、私たち周辺住民が長年、親しんできた警大跡地のほとんどがコンクリートに覆われてしまいます。地域住民のため子孫のために再び守りたい。地球温暖化や都市の荒廃を招く経済優先の乱開発はもうやめてほしいと心から願っています。


 以上で私の陳述を終わります。


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2009年10月13日火曜日

10月16日、もう一つの裁判が始まる

ブログ右上の「裁判日程」のご案内、みなさまお気づきでしょうか?

中野・警察大学校等跡地(以下警大跡地)の行政訴訟は、中野区と東京都を相手取り、中野区と杉並区の住民が現在、2つの裁判をしています。

チラシにある通り、中央部に出来る防災公園の面積を4haから1.5haに縮小したことは違法だとして中野区を、警大跡地の開発は周辺環境を悪化させる計画だとして東京都を訴えています。

住民としては裁判を2つ抱えたかったわけではありませんが、誰(どこ)を訴えるのか、何(争点)を訴えるのかが同じでないと裁判所が判断したため、結果として2つの裁判が進行しています。

警大跡地を含む約18haの開発は、住民から見れば同じ地区内の開発であり、避難場所の観点からも、計画による環境への影響からも、防災公園とその他の地区で分けられるものではないように思います。

でも、「トシケイカク」では、防災公園の都市計画決定権者は中野区で、その他の部分は東京都に区別されるなどの理由から、私たちは2つの裁判を闘っています。

みなさま、2つ目の東京都に対する裁判が、10月16日金曜日に始まります。
第1回目の今回は、意見陳述で、長年警大跡地のそばに暮らしてきた住民が、警大跡地がどんなところなのかという場所への思いと、計画がいかにして進められたか、また、計画によって何が失われるのかなどを裁判官に訴えます。

どうか傍聴をお願いいたします。

10月16日(金)10:45~ 東京地裁522号法廷

終了後、隣の弁護士会館10階1005号会議室で報告集会を開きます。
















弁護団との質疑応答や、意見交換などを行いますのでぜひご参加ください。

2009年10月5日月曜日

鞆の浦勝訴おめでとう! 中野・警大跡地訴訟も続こう























鞆の浦訴訟の訴状表紙


すでにニュースでご存知の方も多いかと思いますが、広島県福山市鞆港の埋め立て免許の差し止めを求めて住民が起こしている「鞆の浦の世界遺産登録を実現する生活・歴史・景観訴訟」の判決が10月1日、広島地裁で言い渡され、原告住民が勝訴しました。

鞆の浦といえば、万葉の歌にも詠まれ、朝鮮通信使が「海東第一」とその美しさを賞賛した港湾です。また、誰しも一度は聞いたことのある箏曲「春の海」(1929)は、箏曲演奏家・作曲家の宮城道雄(1894-1956)が、8歳で失明する前に祖父母に育てられて目に焼きついた瀬戸内の福山市鞆の浦の海をイメージして作ったものです。

この歴史的港湾である鞆の浦の景観について、広島地裁・能勢顕男裁判長は「文化的、歴史的価値があり、国民の財産というべき公益で、事業が及ぼす影響は重大。埋め立て架橋計画は合理性を欠いている」と判決で述べたようで、「『景観利益』保護のために大型公共事業を差し止める初の司法判断」(東京新聞)という画期的判決がでました。

ちなみに、鞆の浦の訴訟弁護団で事務局長を務めているのが、私たち警大跡地訴訟弁護団長の日置雅晴先生です。

日置弁護士を中心とする弁護団とともに、警大跡地訴訟の原告団も、会員やサポーターの方々と一緒に、行政裁量、都市計画の処分性という司法の大きな壁に挑んでいます。

どうか、今後ともみなさまのご理解とご支援をよろしくお願い申し上げます。